ニッポン「意志」モンダイ
約30年になる心理臨床のしごとを通して、
“ う〜ん…
これって、かなりマズイよねぇ … ”
と思い続けていたことがあったのですが、
「宇宙の法則」や「自然の仕組み」
( =「スピリチュアリティ」) について
学んだり、思い出したりしてくるにつれ、
“ やっぱり、とてもマズイ。
臨床を通して思っていたより、もっと根本的にマズイ… ”
と思うようになったことがあります。
それは、
日本においては、
自身の「意志」を しっかり持てている人が、
とても少ない、
という事実です。
「え、そんなことないですよ」と思われる方も多いかと思いますが・・
どうも、一般的に
「意志」の意味の取り違いが起きていて、
それで、自身が実は「意志」を持てていない、
ということに
氣づいておられない方が多いようなのです。
一般的に、「意志」というと、
「意志が強い」「意志が弱い」という言い方にあるように、
何か「すべきこと」や「目的」のために、
本当の思いを抑え込むことがきる力
と受け取られているところがあるように思います。
だから、
「私は、自分を抑えて TPOに沿った『すべきこと』をできるので、
そこそこ『意志』はある方だと思います」
「私は、我慢しきれなくて、ついつい甘いものを食べてしまうので、
『意志』が弱い方だと思います」
といった感じで、
自身のことを捉えておられる方が多いように
思うのですが・・。
臨床心理学的な意味での「意志」は、
「『自分が、ほんとうは どう感じ、どう思っているか』を
自分の顕在意識で つかむことのできる能力」
を指します。
また、スピリチュアリティにおける「意志」も、
「自分が『どうあるべきだ』と思っているかではなく、
自分が 本当は『どうしたい』『どうありたい』と思っているか を
( 顕在意識で ) 把握する力」
を指します。
「自分が 何を感じ、どう思っているかなんて、わかってますよ」
と思われるかもしれません。
「感じる」ことは、
生まれた時から、
普通に、
当たり前に、
ずっと してきていることだから。
ですが、今一度 振り返って、
確かめてみていただきたいのですが、
今 何かを感じておられるとして、
その感じ方は、本当に「あなた自身の」感じ方ですか?
それとも、世間一般で、
「この場合は、こういうふうに感じるもの」とされているから、
自身が 本当は どう感じているかを
ちゃんと確かめることなく、
「世間一般に共有されている 感じ方・捉え方」に合わせて、
自分も そう感じているんだ、と
思い込んでいたりしませんか?
例えば、
とても幼い頃に一度か二度 会っただけで、
その後 何十年ものあいだ、
一度も会うことも話すこともなく、
顔も声も、もちろん人柄のようなものも、よくわからないままだった
遠い遠い親戚のおじさんが ご高齢で大往生され、
そのお葬式に 遠い遠い親族として参列した と仮定してください。
その場合、あなたは、どのように感じますか?
「人が亡くなったのだから、悲しいに決まっている」
「身内を亡くした人たちは辛いに決まっている。
その辛さに思いを馳せると、自分も涙が出てくる」
「人が亡くなったのだから、沈痛な思いになるのが当然だ」
「(普段 交流が ほぼない人だったので) 、
実感としては、会場の沈痛な雰囲気に 染まり切れないけれど、
『死を悼む』 気持ちにはなる」
などなど、いろいろあると思います。
その時の、あなたの「気持ち」は、
本当に 「あなたの」気持ちですか?
本当に「あなたの感じ方」ですか?
「こうするべき」
「こうするのが正解」
「こうするのが正しい」
とされている ( と自身が思っている ) ことに合わせ、
自分の本当の思いや感じ方を
自分では確認していない ということ、ないですか?
ということなのですね。
「正しい人であろう」
「よい子であろう」
「優等生であろう」
と強く思ってきた人ほど、
「こうするべき」
「こうするのが正解」
「こうするのが正しい」
と、自身が「学習」したことに
一生懸命 自分を合わせ、
「自分が」「ほんとうは」どう感じ、
どう考えているのか、を
自分で捉えることが 疎かになって、
「実は自分の思いを掴んでいない状態」が
「当たり前」になっておられます。
その一方で、
「自分の思い」に正直で、
世間のいう「正しさ」にとらわれないでいる人の
振る舞いや 生き方に、
強い怒りを覚えたり、
逆に、強い憧れを抱いたり されます。
「こうしたい」「ああしたい」「こう思う」
というのは、一応 あるけれど、
身近な人や家族に
それとは違う意見や、
反対の意見を言われたりすると、
もともと自分が思い感じていたことが
いつの間にか ホニャホニャホニャ〜と雲散霧消して
自分でも見えなくなり、つかめなくなって、
周りの意見に合わせている ーー
というのも、「意志」が持てていない状態です。
「意志」とは、
自分の本当の思いや感じ方を
“ 自分の顕在意識で ” 把握する力
だからです。
幼少期だと「聞き分けのいい子」「手のかからない子」と言われ、
成人してからは、周りから「いい人」と言われることが多いかもしれませんが・・
人生中盤を過ぎたあたりから、ご本人が とても苦しくなります。
( 早い人であれば、思春期の頃から苦しさを感じ始め、節目節目で苦しまれます。)
また、「自分としては、こう思うけれど、家族 (周り) が反対するので・・」
「だから、自分としては やりたいけれど、できない」と、
( 少し強めの表現にすると )
「自分は被害者」という表現の仕方をされる方も
少なからず いらっしゃいますが、
そのときに、
「自分の思い・考えより、家族 (周り) の意見を取り入れ、実行すること」を
「選択」したのは、「他ならぬ自分」だ ーー ということが
棚上げされてしまっています。
こうした場合も、
「意志」を途中放棄して「他責」にしている状態、
つまり、「意志」を ちゃんと持てていない状態
になります。
ご本人の中で、
「家族 (周り) から言われたら、その通りにするしかない」
「自分の思いを通したら、取り返しのつかない大変なことになる」
といった思いがあるのかもしれないのですが、
もし、そうであるならば、
その「思い」を、まず、他ならぬ自分自身が
つかんで、わかってあげる必要があります。
( そうでない限り、人生を改善していくことは不可能です。)
繰り返しになりますが、
「意志」とは、
自分の本当の思いや感じ方を
“ 自分の顕在意識で ” 把握する力
のことです。
「自分軸」という言葉も、
最近、よく耳にしますが、
「自分軸」を持てるか持てないかのベースにも、
「意志」の問題が絡んでいます。
自分が本当は何を感じ、何を思っているのか、
それを自分の顕在意識で掴む
ということができないと、
「自分軸」を持つことも、取り戻すことも
不可なので。
つまり、「意志」を持つことができて初めて、
「自分軸」を持てるようになるし、
「自分軸」を取り戻すことも可能になる、
ということです。
臨床的には、
人生は「選択」の連続なので、
( 進学や、就職や、結婚や、出産といった大きな節目では特に )
「意志」を持てていないと、
その「選択」を「自分以外の誰かの考え」で行うことになりますが、
「選択」した「結果」として起きてくることは、
自分にとって、よかろうが、悪かろうが、辛かろうが、
すべて自分が引き受けていくことになります。
自分にとって、とてもしんどい「結果」が起きてきたとき、
それが「自分の意志」で選んだものでない場合、
その「しんどさ」を超えていくことが、とても困難になってしまうし、
そもそも「自分を生きていない」人生になります。
そういう問題があります。
スピリチュアリティ的には、
宇宙の法則は、
「意志による選択」が すべての基本になるので、
「意志」を持てていない場合、
その「基本」すら できない、
すなわち、
「宇宙の法則」に則って生きていくこと自体が不可、
という根本的な問題となります。
で、文頭に戻るのですが、
日本では、
「意志」を持てていない人が とても多いし、
自身がそうであることに氣づいていない人も、ものすごく多い、
という事実があるのですね。
「意志」を持てていないなら、
まずは、そのことに「氣づく」ことから ーー
なのですが・・。
あなたの「意志」の具合は、いかがですか?